第7話　契約結婚

家に帰ってからも、心はざわついたままだった。

ベッドに腰を下ろしても、シャワーを浴びても、あのときの言葉が耳から離れない。

――「そういうことでしたら、俺と結婚しませんか？」

あのとき、わたしは固まってしまった。

冗談のようにも聞こえたけれど、滝川さんの表情は真剣だった。

「この提案は、お互いにとって悪いことではないはずです」

そう言われたときの声が、頭の中で繰り返される。

結局、わたしは何も答えられなかった。

「返事はまたでいいです」

そう言って別れた滝川さんの姿が、妙に穏やかで、それがかえって胸に引っかかった。

……どうしよう。

滝川さんの提案を受け入れれば、確かに母への説明は丸く収まる。

「結婚を考えている相手がいる」と紹介すれば、しつこい連絡もなくなるだろう。

でも──。

付き合ってもいない男性と、しかも好きだと胸を張って言えるわけでもない相手と結婚してしまって、本当にいいのだろうか。

冷静になればなるほど、頭の中で「ありえない」という声が響く。

それでも、どうしても引っかかる。

──「お互いにとって悪いことではない」

あれはどういう意味だったのだろう。

わたしにとっては確かに都合がいい。

けれど、滝川さんにとっては？

……もしかして、滝川さんはまだ元カノのことを忘れられないのだろうか。

もしそうなら、この結婚はわたしのためだけじゃなく、滝川さん自身のためでもあるのかもしれない。

そう考えると、胸の奥に重たいものが広がった。

わたしは、どうすればいいのか分からなかった。

答えを出せないまま、ただ布団に身を沈め、天井を見つめ続けた。

＊＊＊

《涼ちゃん、相談したいことがあるんだけど》

そうラインを送ったら、すぐに「いいよ、仕事終わりに寄るね」と返事が来た。

夜、チャイムが鳴り、玄関を開けると涼ちゃんが立っていた。

「相談があるって言ったのに、わざわざ来てもらってごめんね」

そう言うと、涼ちゃんはにこっと笑って肩をすくめた。

「いいのよ。それに奈那子の家だと、美味しいご飯が出てくるし」

その言葉に、少し心が和らいだ。

テーブルに用意しておいた夕飯を並べながら、わたしはまた謝る。

「ごめんね、簡単なものしか作れなくて」

すると涼ちゃんは箸を手に取りながら、嬉しそうに目を細めた。

「これ、私の好物じゃない。……ありがと」

そう言ってくれるのが嬉しくて、少し照れながら席についた。

食事をしながら、わたしはずっと胸に抱えていたことを話し出した。

「実はね……」

滝川さんと会った日のこと。

ランチの最中に突然、結婚を提案されたこと。

その言葉が頭から離れず、どうしたらいいか分からないこと。　

すべてを話した。

涼ちゃんは驚いて「えっ」と声を上げたけれど、それ以上口を挟まず、最後まで黙って聞いてくれた。

話し終えると、わたしは息を吐き出すようにフォークを置いた。

「……結婚しませんかって、そんな展開になるなんてね」

涼ちゃんがぽつりとつぶやく。

わたしは苦笑いするしかなかった。

しばらく沈黙が流れたあと、涼ちゃんがまっすぐこちらを見た。

「私から結婚を勧めることも、やめたほうがいいって言うこともできない。大事なのは――奈那子がどうしたいか。それだけだよ」

その真剣な瞳に胸がじんと熱くなる。

「私は奈那子が決めたことを全力で応援する。……それだけは約束する」

「涼ちゃん……ありがとう」

言葉にすると、込み上げてくるものを抑えるのに必死だった。

その空気をやわらげるように、涼ちゃんがふっと笑った。

「でもさ、今ここにヒロちゃんがいなくてよかったよね。いたら絶対、あれこれうるさく口出して大騒ぎになってたと思う」

思わず想像してしまい、わたしも笑ってしまう。

二人で顔を見合わせて声をあげて笑った。

こんなふうに笑えることが、どれだけ救いになっているか――そのとき、改めて実感した。

＊＊＊

次の日曜日。

わたしは滝川さんと、以前に相席したカフェで待ち合わせをしていた。

店の前に立つと、滝川さんはすでに到着していて、わたしを見つけると微笑んだ。

「まさか、こんなに早く誘っていただけるとは思いませんでした」

穏やかな声を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。

……涼ちゃんに相談してから、わたしは自分なりに答えを出していた。

席に着き、グラスの水に手を伸ばす。

一口飲んで深呼吸をしてから、わたしはまっすぐに滝川さんを見た。

「……あのお話、お受けします」

その言葉を口にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。

滝川さんは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。

「そうですか」

優しい声でそう言ってくれた。

「実は、断られるものと思っていましたので……」

その言葉に、思わず小さく笑ってしまう。

「早速の提案でしたので、どこどん行こうと思いまして」

滝川さんは少し考えるようにわたしを見てから、口元に笑みを浮かべた。

「横井さんは、意外と……思い切りのいい方なのですね」

その言葉に、頬が少し熱くなる。

「では……詳細を決めていきましょうか」

滝川さんの穏やかな声に、わたしの胸は再び高鳴った。

滝川さんと向かい合って、わたしたちは「結婚」について現実的な話を始めていた。

こんな風に他人と結婚生活を打ち合わせする日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかったのに。

「とりあえず……最低でも一年は結婚生活を送ることにしましょう」

滝川さんは真剣な表情でそう言った。

「一年後に離婚、というのがちょうどいいと思います」

その言葉を聞いて、わたしは静かに頷いた。

一年……。確かにそのくらい結婚をしていれば、母にも「もう結婚生活はこりごり」だと伝えて逃げられるかもしれない。

少なくともその間は、あの圧力から解放される。

だけど――。

どうしても気になることがあった。

「……滝川さん、この前“お互いにとって悪いことではない”って言ってましたよね」

思い切って尋ねてみた。

滝川さんは一瞬だけ言葉を探すように黙り、そして視線を落とした。

「それは……母が関係しているんです」

それ以上は話そうとしなかった。

わたしはそれを深く追及することはできなかった。

滝川さんにも事情があるのだろう。

その後も、わたしたちは結婚生活について細かいことを話し合った。

生活のこと、職場ではどう振る舞うか、周囲への説明……。

「まずは横井さんのご両親に挨拶に行かないといけませんね」

滝川さんの言葉に、胸がどきりとする。

「ご両親のご予定を聞いておいていただけますか？」

……本当に挨拶に行くんだ。

付き合っているわけでもない、契約結婚なのに。

そう思うと緊張で胸が締めつけられる。

でも、不思議と嫌な気持ちはなかった。

むしろ、これからの生活に少しだけわくわくしている自分に気づく。

きっとそれは、滝川さんがただの「契約相手」ではなく、誠実で素敵な人だと気づき始めているからだろう。